裁きではなく赦しと癒やしを
わたしたちの王である主よ、わたしたちの過ちをあわれんでくださったのはあなただけです。
今日の栄唱はこのように歌われます。私たちは、過ちは、とがめられ、罰せられるものだと考えます。その先に赦しがあるとしても、過ちを犯したら、まずは相手の怒りを恐れます。
しかし、私たちの主、すなわち神は、私たちの過ちに対して、怒りではなく憐れみを抱いてくださるというのです。
過ちを犯した人を「悪い者」と見なすと、そこには怒りの感情が伴います。その人をとがめ、裁こうとしてしまいます。しかし神は、私たちの悪よりも、「弱さ」に心を止めてくださるのです。過ちを犯さざるを得なかった心の弱さ、社会の中での弱さに心を留め、怒り、裁くのではなく、憐れんでくださるのです。
聖週間は神の子であるイエスの主と復活を思い起こす一週間です。イエスの死と復活は、私たちの過ちを憐れんでくださる神の愛の象徴です。イエスは、自分を見捨て、裏切った弟子たちを一切とがめることなく、彼らの前に復活した姿を現しました。
イエスは、弟子たちが自分を裏切ったのは、決して悪意によるものではなく、弱さによるものだと、そんな彼らを救うことができるのは、怒りによる裁きではなく、憐れみによる赦しと癒やしであると知っていたのだと思います。
「師を見捨てた自分たちが赦された」という体験は、弟子たちを決定的に変えました。彼らは死をも恐れず、喜びのうちにイエスの福音を伝え、殉教していきました。そんな弟子たちの宣教の先に、私たちは生きているのです。