イエスの言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
今日の福音(ヨハネ7.40-53)にはこのように書かれています。イエスの名が高まれば高まるほど、イエスがいったい何者なのかについて様々な議論が生まれました。イエスを好意的に見る人もいれば、疑いを抱く人や、殺したいほど憎む人までいたようです。
今、洗礼を受けてキリスト者となり、教会に集まっている人々は、イエスが神の子、救い主であり、自分自身を、そして人類を、十字架によって罪から救ってくださった方だと信じていることは確かでしょう。
しかし、それは言葉による定義でしかないようにも思います。実際にイエスがどのような方なのか、特に、自分にとってどんな方なのかは、人によって全く人物像が異なっているように思います。もしかしたら、生身の存在、現実の存在としてのイエスを具体的に想像したことがない人もいるかもしれません。
もちろん、ある人物の印象が人によって違うのは当たり前のことです。誰が見ても、誰にとっても全く同じという人はいないでしょう。イエスとの関わり方は人によって様々です。イエスという人物像が一つではないのは不思議なことでも、おかしなことでもありません。
しかし、イエスとの関わりを通してではなく、自分の理想、自分の正義を形にして、本物のイエスとは全く違う、自分だけの偶像のイエスを作り上げてしまうこともあるように思います。特に、自分の正義で他者を裁きたい時、私たちは、裁きの道具として、心の中に偶像のイエス、愛とはかけ離れたイエスを作り上げてしまいます。
もちろんそれは、イエスご自身ではありません。イエスの仮面をかぶった悪そのものです。自分に都合のよい偶像のイエスなど作らなくても済むように、祈りを通じて、そして、生活の全てを通じて、心を開いて本物のイエスと出会っていきたいものです。
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