主は言われる。「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」
今日の第一朗読(エゼキエル18.21-28)にはこのように書かれています。ここには、キリスト教が罪と赦しをどのように考えるかが明確に記されています。
もちろん、罪を犯さないのは尊いことです。しかし、神がより重んじるのは、罪を犯した後にそのことを悔い、回心して神に立ち戻り、赦しを願うことです。
神は回心してご自分の元に立ち帰る人を必ず赦し、受け入れてくださいます。神は人間の罪さえも、赦しと交わりという恵みに変えてくださるのです。
私たちは今、罪は厳しく裁き、罰を与え、社会に、人々の交わりの中に戻るのを許さないことが善であるかのような世界に生きています。
そんな世界の中で、神の愛、神の赦しを信じて生きていくことができるか、今、一人ひとりが問われているのではないでしょうか。
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2024-02-23T10:59:00+09:00
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教会の礎は
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」
今日の福音(マタイ16.13-19)で、イエスはシモン・ペトロにこのように言います。ペトロは元々、田舎の漁師です。学があるわけでも、組織作りの経験...
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」
今日の福音(マタイ16.13-19)で、イエスはシモン・ペトロにこのように言います。ペトロは元々、田舎の漁師です。学があるわけでも、組織作りの経験があるわけでもありませんでした。
イエスが捕らえられた時には逃げ出し、イエスのことを三度も「あんな男は知らない」と言ったように、私たちと変わらない弱さを持った人でもありました。
それでもペトロは、誰よりもイエスのことが大好きだったのでしょう。イエスのことが大好き、イエスに惚れ込んでいるという点では誰にも負けない。誰もがそれを認めるような人だったのでしょう。
イエスは、そんなペトロを教会の頭とし、今も続く教会の礎となさいました。私たちの教会は、強さや立派さの上に建っているのではありません。ただ、イエスへの愛、そしてイエスの愛を信じる心の上に建ち、今も続いているのです。
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